COLUMN

​コラム

デジタルアニメーションについて個人的に記憶している幾つかの出来事(1)

1980~90年代まで

[文]木船徳光 Tokumitsu Kifune(東京造形大学アニメーション専攻 教授)

日本のアニメ制作の現場で3DCGを中心にアニメーションのデジタル化に当事者として立ち会ってきた経験をもとに具体的な作品にそってその制作方法の変遷を記録しておきたい。個人的に関わった作品だけなので、広範囲ではないが、それなりにバラエティにとんだ作品群になっているし、大雑把ではあるが、デジタル化の歴史の中でIKIFとIKIF+がどのように活動していたかを見ていくことができると思う。

作品データにあるIKIFとIKIF+の違いは、学生時代に私と石田園子が結成した映像制作ユニットがIKIFで、以後、実験映画、アニメーションを作り続けている。元々は3DCG やデジタルアニメーションの専門家ではないのだが、様々な映像表現の一つとしてコンピュータを使い出し、そのうち3DCGの仕事が増加しスタッフを使って制作するようになってしまった。そこで立ち上げた会社の名前がIKIF+である。

 

1980年代に始まった日本のアニメーションの現場のデジタル化は、それまで一部撮影台の動きをコントロールするためにパソコンが使われていた以外はほとんどアナログで制作していた現場にとって、制御できない異物が入ってきた感がある。毎週何本ものアニメーション番組を限られた予算で制作するために極限まで合理的になっていた表現とシステムにとって、それは内部に入れるには異質なものとして、自分たちとは関係の無いものとして外で制作させる傾向があった。またコスト的にもまだ高く内部に入れることは無理だった。

また表現の方法も従来のそれを置き換えるのに、コンピュータの機能が不足していたこともあり、量産されることはなかった。

1990年代後半に入るとコンピュータの性能も上がり、絵の質も従来のそれと同じようにできる可能性が出て、TVシリーズでも使われるようになり、1997年に東映動画(現:東映アニメーション)が彩色をすべてコンピュータで行うようになり、一気に業界全体がデジタル化された。

従来の制作システムの中に置き換えるように導入されていき、レイアウトやタイムシート、カット袋といったようなアナログアニメーションで使用していたシステムを使ってデジタルの作業も制御するようになっていった。またコンピュータの値段も下がってきたので、スタジオの内部にそれを導入することも当たりまえに行われるようになった。

2000年代になると、デジタル化の混乱もある程度収まり、アナログ時代と同等の表現ができるようになり、3DCGも2Dと違和感無く使用される作品も出てきた。そこからさらに発展し様々な表現方法が模索されだし、フル3DCGアニメーションもその一つとして制作されるようになり、さらにバリエーションが増えていった。

2000年代は進化の螺旋がちょうど一回りしたところで、3DCGを中心にまた1980年代と同じような動きがはじまっているように感じる。3DCGという異物を2D表現の中にどの様に収めるのかの本格的な挑戦が始まった感がある。

 

今回取り上げるIKIFおよびIKIF+が関わった作品。

『藤子不二雄スペシャル ドラえもん ヨーロッパ鉄道の旅』1983年

『機動警察パトレイバー 劇場版』(劇場映画)1989年

『しあわせのかたち』(OVA)1990年

『Rocco』(パイロット作品)1994年

『ブルーシード』(テレビシリーズ)1994年

『モビーDファイル』(パイロット作品)1995年

『PANZER DRAGOON』(OVA)1996年

『GAME 攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(ゲームオープニングアニメーション)1997年

『G.R.M.ガルム戦記』(パイロット作品)1999年

『BLOOD THE LAST VAMPIRE』(劇場映画)2000年

『女神候補生』(TVシリーズ)2000年

『サクラ大戦3』(ゲームオープニングアニメーション)2001年

『メトロポリス』(劇場映画)2001年

『サクラ大戦 活動写真』(劇場映画)2001年

『ミニパト』(劇場映画)2002年

『イノセンス』(劇場映画)2004年

『スチームボーイ』(劇場映画)2004年

『ドラえもん のび太のワンニャン時空伝』(劇場映画)2004年

『岩窟王』(TVシリーズ)2004年

『トランスフォーマー ギャラクシーフォース』(TVシリーズ)2005年

『ドラえもん』(TVシリーズ)2005年~

『ドラえもんのび太の恐竜2006』(劇場映画)2006年

『立喰師列伝』(劇場映画)2006年

『FREEDOM-PROJECT』(日清食品カップヌードル広告)2006〜2008年

『新SOS大東京探検隊』(劇場映画)2007年

『うっかりペネロペ』(TVシリーズ)2006〜2013年


 

1980年当時色々な場所でアニメーション制作のデジタル化が試みられていた。東映動画ではさまざまな研究が行われ実験的なシステムによりテストも行われ(しかし80年代のコンピュータ環境では実用性が無いとの結論がでていった)、日本初のCG制作プロダクションJCGLではTVアニメのデジタル化を目指し、『小鹿物語』1983年 監督:おおすみ正秋 製作:講談社 ではシリーズ中1話のみだが、実際に制作も行われた。

それ以外のアニメーションプロダクションでもいくつか動きがありその一つがTEAという会社であった(音響技術者・奥山重之助(元大映の録音技師、その後武満徹の初期ミュジック・コンクレート制作にも協力するなど現代音楽の電子化の技術的サポートをしていた)が独立したポストプロダクションとしては黎明期に設立した)(音はステレオ2チャンネルのデータを扱うのに比べ、映像はRGB3つのデータなので、1.5倍のデータを制御するところが変わるだけで、同じような事、と奥山さんが言っていたのを記憶している)。

TEAでアニメーションのデジタル化を始めた当初はNECのPC8800という8ビットパソコンで制御するシステムを作っていた。その後PC9800シリーズが発売され、16ビットのパソコンに移行した。(ビデオデッキをコントロールするためのPC8000という一世代前のコンピュータもあり、一回だけ実働している所を見たことがあった。)ビデオトロン株式会社との共同開発で、社長の重之助氏と当時社員だった稲垣祐介氏がベーシックで制御プログラムを組んでいて、作業がうまくいかないとその場でプログラムを編集したりしていた。

母体がビデオ編集スタジオであったので、システムがそれに乗っかっていて、色を決める時もアナログのセルに塗ったキャラクターをビデオカメラで撮影したものにパソコン上のキャラクターを合成しながらビデオ信号を見るための波形モニターとベクタースコープを使って色を合わせていた。これによりPC上では表示できてもNTSCのビデオ信号としては表示できない色のデータを使ってしまうようなことはおきないし、アナログアニメーションで使用してきた絵の具の色をビデオカメラで撮影したものとビデオ信号的には同じ色をコンピュータ上で再現できるという利点もあった。

またメモリー上にためられたアニメーションのデータはアニメーション制作システムからビデオの編集システムに渡すようになっていた。したがって、他のビデオ信号、実写などと簡単に合成することができ、編集卓を使ったエフェクトもリアルタイムにかけることができる利点もあった。

私はその会社に松本俊夫氏(映画評論家、映画監督、実験映画作家)の紹介でそのシステムのパイロットフィルム制作のため契約しそれが終わった後もオペレーター兼アーティストとしてしばらくそこでデジタルアニメーションの制作に関わっていた。

いくつかの仕事の後、それの長所を生かした番組の企画があった。

 

『藤子不二雄スペシャル ドラえもん ヨーロッパ鉄道の旅』1983年

 制作:シンエイ動画

アニメーションパートと実写パートと、ヨーロッパへ旅立った藤子不二雄(この頃はまだ2人で藤子不二雄だった)の実写映像とアニメーションのドラえもんとのび太を合成したパートの3つの部分で構成されていて、その中でフランスのTGVなど4カ国の鉄道を紹介していくという内容だった。

アニメーションパートの動画、背景まではシンエイ動画が制作しそれ以降の仕上げ部分はTEAのシステムで制作され、実写部分とアニメーションの合成もTEAの編集スタジオでおこなわれた。最終的なキャラクターの位置や大きさは編集卓を使って実写と合わせながら決定していった。リアルタイムに動きを見ながらできるのは、普段動かない絵を見ながら判断しなくてはならない演出家にとっては、やりやすいシステムだった。

しかしアニメーション制作システムはそれなりに高価だったので1台しかなく、多量のカットを短期間に仕上げるために24時間それを使わなくては間に合わなかったので、締め切り前の3週間は家に帰らず、眠らないで作業をしていた。撮影台の所で動画をタップに合わせて取り替えるため1人、ペイントをするための2人、ビデオ周りに1人、最低4人以上いないと作業ができなかった。シフト制にして何人かは休めたのだが、メインの3人、私と社長の息子さんと稲垣氏はほとんど毎日そこにいた。出来上がったものをチェックするため、シンエイから出向してきていた演出の方もスタジオにつめていて、出来上がったカットをチェックし、リテイクがあればすぐに直していった。

動きがすぐ見られて、リテイクがすぐできるというところがデジタルの利点の一つだった(やりようによっては、いつまでも直し続けるという欠点にもなるのだが)。

デジタルで制作されたTVアニメーションとしては最初期の作品だった。

その後TEAではテレビ神奈川(UHF)向けにデジタルでアニメーション番組を一つ作り、実写とアニメーションを簡単に合成できるという利点を生かしてバラエティ番組のタイトルなどを作っていたが、アニメーション番組を定期的に作り続けることは無かったし、そのシステムが他の会社で使われ広がることも無かった。

その原因はシステムのアニメーション制作部分のコストは安かったがポストプロダクションと一体化したものなので、トータルで考えると決して安くなかったことと、やはりまだ当時のパソコンにはアニメーションを制作するには荷が重すぎ、同時発色数が少ないとか、2値化した線のジャギィの問題等があり、フィルムで制作するアニメーションと同等かそれ以上でなかったので、導入するメリットがなかったのではないだろうか。

 

『機動警察パトレイバー 劇場版』(劇場公開)1989年

 制作協力:IGタツノコ 監督:押井守 CG制作:IKIF

当時まだ一般的にはそれほど有名では無かった押井守が監督を務めた作品だったため、映画の制作予算が1億ウン千万円程度しかなかった。監督は巨大ロボットをパソコンのメタファーとして描く考えがあったので、モニターに映るものをすべてCGで表現したいと思っていたが、大手CGプロダクションに見積もりをしてもらうと、30秒のCG制作に対してウン千万円という値段がついてきた。当然IGの社長石川さんはそれを拒否した。大学時代の先輩渡辺さんがその映画の原画を描いていて、彼を通して当時AMIGA2000というパソコンを使ってCGを作り出していた私のところ(IKIF)に話が来て、個人で受ける予算、ウン百万円代で制作することになった。ただ、本当にできるかどうか分からないのに、若い時の無謀な自信があったのだろか、3DCGのソフトとレンダリング用に当時出たばかりのAMIGA2500というパソコンを前払いで出してもらった資金を使って購入してなんとか制作した。

 元々所有していたAMIGA2000も船橋西部美術館でやった「ピーターパン展」用の映像を制作する仕事を受けた時にAMIGA2000があれば受けられるといって前払いでもらった資金で購入したものだった。

当時AMIGAにはいくつか3DCGのソフトがあったが、Sculpt3DとModeler 3-Dというソフトを手探りで触りながらワイヤーフレームに少し装飾しただけのものなどを制作していた。現在ならリアルタイムでアニメーションを表示できるような映像だが、当時は1フレームを2時間以上かけてレンダリングしたカットもあった。

その後ハードとソフトが進化しても、その分要求が上がるので、大変なカットのレンダリング時間としては、相変わらず時間がかかることはあった。IKIFにAMIGAを導入させた岩井俊夫さんは当時1週間ぐらいの旅行に出るときには重たい3Dシーンをレンダリングさせたりしていた。それが途中で失敗して大変なショックを受けていたこともあった。

HOSという架空のOSの起動画面などはデラックスペイントIIという2DCGソフトで制作し始め、ゾートロープというアニメーション機能がついたソフトが新発売されたので、それで制作し最終的にはデラックスペイントがバージョンアップしアニメーション機能が搭載されデラックスペイントⅢになったので、それに戻って制作していた。デラックスペイントⅢはその後色々な2D C Gソフトを使用したが、一番使いやすかったソフトだったような気がする。

最終的には2Dと3Dデータを入れたAMIGAを、それを購入した時の箱に入れ、重たいので頭の上に乗せて電車を使って、ビデオ編集スタジオに持ち込み、メモリー上に展開したアニメーションデータをshellを使って再生し、それらをビデオで録画した(データはフロッピーディスクに入れて持っていったのだが、740kのディスク69枚だった。AMIGAのデータ圧縮が優れていたのと、色数、解像度とも小さな値だったのでその量でおさまったのだろう)。

編集スタジオで、動いている映像を監督が見ながらノイズを加えたり、色味を変えたり、多少動きのタイミングを変えたり、といったようなことを指示し、映像が加工されていった。リアルタイムで試行錯誤ができる環境は従来のアニメーションスタジオには無い環境だった。

そこで完成した映像はビデオ解像度の720×420程度のものだったが、それらの映像をキネコ(キネスコープ・レコーダ)し、フィルムになったものを本編で使用していた。

箱舟という巨大建造物の3DCGやガードロボットといったようなものを3DCGで制作したのだが、当時は特にその為に設定書を作ることも無かった。その部分のレイアウトを描いていた、渡部隆氏が大学の同級生だったこともあり、直接氏から他のカット用のレイアウトをもらい、それを元にモデリングをした。3DCGを使った政府広報のCM部分もこちらで絵コンテを描き作りやすいように制作していた。

2DCGの部分も監督の描いた絵コンテを元にこちらで作りやすいように絵コンテを描きなおしそれを元に2Dペイントのソフトを使って制作した。こちらで考えたHOSのデザインが鉤十字を連想させるものだったので、渡部隆氏に設定をやり直してもらったが、それをどう動かすかはこちらに任されていた。

これらは、アニメーションの制作会社がデジタルによるアニメーションの制作をコントロールすることに慣れていなく、またCGを制作するほうもソフトやハードの制約が多く可能な表現の幅が狭かったので、ある程自由に制作しなければできないといった条件があったからだと思われる。途中のチェックもこちらが描いた絵コンテと出来た映像をビデオテープに落として見せただけで、後は編集スタジオで収録するだけだった。

映画全体の制作時間も短かったが、CG制作の時間も3ヶ月間で予算も少なかったということも比較的自由に制作できた原因の一つだったと思う。

ちなみに、映画に出てくる機械音声を低予算でなんとする相談もされた。AMIGAには音声合成のアプリがついていて、英語の発声は標準の機能でできて、ローマ字を工夫して入力して日本語を喋らせる遊びも流行っていた。自分でやることも考えたが、時間もなかったので、岩井さん関係の同人ゲームの音響を担当していた人を代々木駅前で押井監督に紹介した記憶もある。

  

『しあわせのかたち』(OVA)1990年

 制作:I.G タツノコ

週刊ファミ通に連載していた、ゲームマンガが原作のアニメーションなので、オープニングもファミコンのゲーム風にしたいということで、私たちのところに来た仕事だった。絵コンテを3種類描きその中から選ばれたものが曼荼羅風のものだった。キャラクターの動画をIGのアニメーターに描いてもらい、それを見ながらにファミコン風のドット絵をパソコンで作りコンポジットしアニメーションにした。それをパトレイバーの時と同じようにパソコンから直接ビデオに収録した(当時PC98を使って、ファミコンの教育用ソフトのドット絵制作の仕事もしていたので、その経験がうまく生きたようだ)。

インターミッションはパソコンを使った練りゴムアニメーションで漫画のキャラクターを練りゴムを使って制作し動かした。学生時代講義の授業中に練りゴムで遊びながらこれでアニメ作りたいな、と思っていた事が実現できた。白い練りゴムをコマ撮りして、データをパソコン上で彩色し、動きを足したりしてレイアウトし制作した。この手法は同時発色が8色というT E Aのシステムでアニメーションを制作した経験が元にで、その後N H Kでやった「ぶーばーがー」のシリーズに発展していった。AMIGAは16色出せたのでキャラクターを2体同時に表示できたので作業がだいぶ楽になっていた。美大受験時代に石膏デッサンが10階調くらいあれば十分描画できた経験も役に立っているような気がする。

この頃は普通のアニメを作るのはデジタルでは困難だったので、セルアニメではできないちょっと違う表現が求められていたのではないかと思う。

 この時の音声の収録に見学に行った時、石田の高校の後輩が原作者だったことを発見した事と、収録後クレジットカードが発行出来たばかりの石川さんが寿司を奢ってくれようとしたが、その寿司屋が現金しか受け付けてくれなかったので、割り勘になった事が印象に残っている。

この頃の後くらいに造形大学にアニメーションを教える非常勤講師として戻った。授業を受ける学生はそんなには多くなかったが、何人か自主制作をしようとしているものがいた。AMIGAを使用している学生もいたので、何人かアルバイトとして、半分くらい教育の一環として仕事をしてもらったりもした。勝田聡くんもその一人だったが、彼は当時デラックスペイント使いで、3DCGを勧めても拒否された。そんな彼も卒業後気がつくと、今ではIKIF+のスタッフとして仕事をしている宍戸光太郎さんと「ナマズンガー」という作品をL Wで制作し、ゲーム関係の3Dクリエイター、3Dイラストレーターになっていた。2Dが専門で、3Dはちょっと言っていた、動きの才能がある学生がいつの間にか3Dクリエイターになっている事がその後良くあるのだが、彼はそのはしりだったようだ。

ちなみに学生時代から勝田くんは先輩だった映像専攻の今はアニメーション専攻で実写映画のことを教えてくれている、中嶋莞爾監督の映画の美術を何作か担当していた。

さらにちなみに最近このサイトの驚き盤の記事で紹介した「Phenakistoscope」の元を作った、勝田くんの一年先輩の、子供の城で昼間くんと一緒に映像事業部で仕事をしていた、山岡一馬くんも中嶋監督の作品に撮影で参加している。

高尾にあった造形大の薄暗い一号館の一階の玄関で彼ら3人に『はがね』の宣伝をしてくださいよと頼まれた事があったが、当時も今もあまり力のない私だったので何も出来なかった。

 フィルムで制作していた昔の映像の学生は卒業制作のため何百万もかけていたという話を最近の学生にすることもあるがその話の元になったのは『はがね』だった。

この頃はセルアニメーションの業界で仕事をする気は全然なくて、企業PVや子供向けの映像コンテンツの制作でお金を稼ぎ自主制作のアニメーションを制作することが生活の中心だったような気がする。昼間くんのプロデュースで不動産会社のPVを山村くんと制作したこともあった。スタッフルームの八巻さんのプロデュースで小学館の幼児PAL用のLDに入れるアニメーションを岩井さんと一緒に作ったり、福島さんのプロデュースでNHKのCMを作ったりもした。自主制作で作った人脈でアニメーションの仕事が途切れずあった。ユーミンのPVに映像素材提供したこともあったし、その縁でコンサート用に映像や他のミュージシャンのPV用のアニメーション制作したこともあった。ほぼ二人でやっていたのでコストパフォーマンスは一番良かったかもしれない。石田関係でTOMYの企画やデザイン、スケッチの仕事も定期的にあったし、IKIF+の母体となった石田父のセブンフォトグラフィという会社から企業PVの仕事も随分した。映像をデジタルで制作できて、プロ品質のデータを、同期の取れた映像信号をだせるAMIGAのおかげで個人がアニメーション制作だけで暮らしていけるようになったのもこの頃だったかもしれない。

『Rocco』(パイロット作品)1994年

 製作:講談社・パナソニック・MGM 監督:おおすみ正秋 CG監督:IKIF

パナソニックがMGMを買収していた時期に日本発のコンテンツを制作しようとし、講談社と組んで作ったパイロットフィルムで、JCGL制作『小鹿物語』の監督をしていたおおすみ氏(オバケのQ太郎、怪物くん、ムーミン、ルパン三世、走れメロス等の監督)が、コンピュータ彩色+3DCGのアニメーションを強く望んでいた。当時アメリカではアニメーションのデジタル化は進んでいて、その影響で韓国や東南アジアではデジタルアニメーションのスタジオがいくつか出来ていたが、日本では対応しているスタジオは無かったので、韓国の青安スタジオというプロダクションを現場にして制作がスタートした。

口をきくミニ機関車という設定なので、機関車の出てくるカットがほとんど3Dになり、2Dの作画と平行して作業となった。2Dと3Dの影の方向をあわせるための監督の発案で記号が作られ、それがレイアウトに書かれていた。しかしアニメの影の表現はさほど厳密ではなく、その絵の中で光の方向が色々あっても気にしないことが多く、たとえばキャラクターがカメラの手前にいて背中を向けているアップの構図では、背景がどんな光の当たりようをしていても、逆光で表現されること多かったりするので、これ以降その記号が使われることは無かった。

まだキャラクターの色塗りの制限があって、影の色まで同時に発色できなかったので、影のマスクを合成して暗くするようにしていた。それによってセルの立体感の表現はなんとかなったが、全体の印象がくすんだものになってしまった。

セルに塗る色は、絵の具の制限もあるので単純に明度を下げるのではなく、色相を変えることで影の表現していることを、それによってセルアニメが成り立っていたことに気付かされた。

犬童一心監督のCM仕事をした時に3DCGの影が暗くなるだけなので、それがいやだと指摘されたのも同じ事だったのだと思う。ライティングの色を、特に反射光の色を注意するようになったきっかけになったようだ。

3D作業はIKIFで機関車をモデリングし、テクスチャーを描き、動きを付け、ライティングをしてシーンの雛形を作って韓国のスタジオにそのデータを送り、それを基準に大部分の3Dを作ってもらった。煙の表現もまだボクセルやパーティクルといったような技術が一般的ではなかったので、モデルのモーフィングと合成で表現する方法を開発し、それを使ってもらった。

AMIGAにデスクトップビデオのハードとソフトが一体となったVIDEO TOASTERが登場し、そのおまけソフトとしてLightWave3Dがついてきたので、この頃から3DソフトはLightWave3Dを使用するようになっていた。

サーファーショップだった頃の名残で店内にサーフボードが飾ってあった辻堂にあったメックスという輸入代理店に行ってVIDEO TOASTERを購入した。店のスタッフだった飛田さんにその場でその使用方法を実演してもらい、それをビデオに撮ってそれを見ながら使い方を覚えた。ただそれはまだバージョンも0.8か0.9だった。岩井さんが遊びに来た時に、バンプマップのメニューがあったので基本的な立方体のサーフェイスにそれを設定してレンダリングをかけたところ、なかなか表示されないので、お茶を飲んで別の話をしていたら、1時間くらい後に表示される状態で、3Dソフトとしてすぐに使える感じではなかったが、バージョンが上がるに従って、アニメーションを作るのならこれでいいかと思えるものになっていった。

 

講談社の偉い人とおおすみ監督と一緒に韓国に行き現場を見学した時スタジオの外に出て見た町の印象が私の子供時代の商店街に似ていて、まだ電気事情も安定していないような時期だったが、日本にはない熱気のようなものを感じたことが印象的だった。

最初は中々OKカットが出なかったのだが、すごい速さでリテイクがでてきて、最終的にはなんとかなった。デジタル制作だとリテイクがしやすいという利点と3DCGは一度モデルを作ってしまえば、その形が崩れることは無いという点がうまく作用し完成した。

IKIFでレンダリングしたものもフルカラーの3DCGを元に減色したものだったので、16色や32色で表現していたそれまでとは違って、4096色のデータだったと思う。そのパレットを弄って背景美術の人が描いたマップデータを貼った機関車の色を変換して、錆だらけの絵にしたのは4096色だから出来た表現だったと思う。

ルパン三世の制作進行をしていた人が後楽園にあったビデオのポストプロにいて、そこで編集することになっていた。おおすみ監督があらかじめ歪んだパースで描いてもらった背景美術をビデオ効果でパースを付けて、騙し絵のような効果で正しいパースに見えるようになり、ビデオスタジオで背景の移動スピードを変える事ができるようになることを試みていた。なるべく全てのことをリアルタイムで変更したいという欲求が潜在的にはあるということを意識したのはこの頃だった。

2D+3Dの複雑な合成カットや3DCGでは難しい表現はあらかじめ監督が避けるように演出していたので、完成したアニメは自然に合成できたカットもあり、普通のアニメーションに少し豪華な3DCGが入ったものに見えるようにできていた。2Dの動画で制作されているアニメも誰が原画マンかによって監督がカットの内容を変えることもあるので、3DCGを使っていても同じようなことで、監督によって制作のコストパフォーマンスは大きく変わってしまうということだと思う。

それなりに評判は良かったのだが、完成した頃にパナソニックがMGMを手放してしまっていたので、世に出ることの無いパイロットになってしまった。

よく監督の自宅で朝まで打ち合わせをしていて、後半は監督のお話を聞く時間になっていたような気もするが、演出家は博識で無限に話題が出てくる人種という事が印象に残り、コナコーヒーも無限に出してもらえた記憶と、その頃の渡辺篤史の建物探訪に監督の家が登場してびっくりした記憶が残っている。

 

『ブルーシード』(テレビシリーズ)1994年

 制作:Production I.G・葦プロダクション 監督:神谷純

オープニングアニメーションの3DCG部分を請け負った。主題曲にタイミングを合わせる必要もあったので、監督が描いた絵コンテを元にラフ原画とタイムシートをアニメーターに描いてもらい、それを元に3DCGを制作した。

美術監督の木下和宏氏にROCCOを見せながらテクスチャーの発注をした。まだ絵の具で描いていた背景画はA4のスキャナーで取れる大きさに描いてもらったので少し小さすぎるものもあったが、IKIFのほうでテクスチャーを足してなんとかした。当時はA3のスキャナーは個人で購入するのは高すぎて購入は無理だった。

この頃フルカラー(と言っていた)に移行し出して、データが大きくなり、パソコンのメモリーから直接アニメーションを再生することが難しかったので(やれないことはなかったが複雑なことをしなくては出来なかった)、PAR(パーソナルアニメーションレコーダー)というハードディスクレコーディングをパソコンの中に入れて、そこからアニメーションを再生しビデオに収録していた。

その後3DCGの仕事して画面に立体的な模試が飛び込んできてキラリンと光ってフィックスするロゴの映像を

この仕事の打ち合わせの時IGの社長石川氏は「うち(Production I.G)はアニメーション業界がデジタル化しても最後までアナログだから。デジタル化することは無いから」といっていた。

しかしこの頃アニメーションのデジタル化の2度目の波がやってきていた。パソコンのハード、ソフトとも高性能になり、値段も下がってきたので、コストパフォーマンスのバランスがなんとか取れるようになってきていた。日本製の2Dのペイントシステムも開発され、海外のそれも何種類か日本に入ってきていた。

神谷監督がIKIFにAMIGAを紹介した岩井さんの中学の同級生で、中学生の時、岩井さんが教科書でパラパラ漫画を書いていた時に、神谷さんが絵コンテのようなものを描いていたという話を岩井さんから聞いて、人はあまり変わらないものだなと思った事が記憶に残っている。

調布にある東京現像所でビデオの編集をしていたので自電車に乗ってAMIGAを運んで収録に行ったのだが、当日の朝最終レンダリング中にハードディスクが飛んで、少しふるいバージョンの映像で何とかやり過ごし、以後近所だったこともあり編集のタイミングのたびに少しずつバージョンアップさせたデータを持って通った記憶がある。進化するオープニングの走りだったかもしれない。ハードディスクは飛んでしまう事があって、必ずバックアップを取るようにと学生に指導する時、実感を持ってそれができるのはこの時の経験のおかげだと思う。

 

『モビーDファイル』(パイロット作品)1995年

 製作:サンライズ 監督:おおすみ正秋 CG監督:IKIF

Roccoを見た当時サンライズの社長だった山内氏が、機関車をロボットに変えて3DCGにすればサンライズが得意としているロボットアニメが制作できるのではと考え、おおすみ監督に発注があり作られたパイロット作品。

当時サンライズではデジタル化の実験を始めていた所で、入社1年目と2年目の制作進行の社員が、パソコンが扱えるということで専門のスタッフになっていた。本格的にデジタル化するにあたってのテスト作品として企画され、仕上げは日本製のアニメーション制作ソフト、レタスを使い、3DCGは私たちのチームがAMIGAからWindows PCに移行期だったLightWeve3Dを使用し、サンライズのチームが何千万円だったエイリアスが何百万円に安くなった時期だったのでフォーカルポイントの方から来たコンピューターアドバイザーの推薦でエイリアス(バージョンアップし改名してMAYAになったソフト)を使用していた。私もCG監督だったので、それらのソフトの使用方法を代理店の方に説明してもらって、なんとかそれを使ってロボットを動かしたりしていた。

当時造形大学で非常勤講師をやり出した頃だったのとパソコンを買って3DCGをやりだす学生が出始めていたので、彼らをアルバイトとして使っていた。大学では造形計画というコンピュータを中心とした専攻ができていて、そこではSGIのワークステーションが使用されていたが、アルバイトに来てくれた青山敏之くんを中心とした学生たちはAMIGAユーザーでワークステーションに対抗してLightWeve3Dでどこまでできるのかの挑戦をしていたようだ。

CGソフトの代理店ダイキンの推薦で日本製のモデリングソフトも導入していた。サッカーボールのモデリングが簡単にできるというデモンストレーションの記憶が大きい。

青山チームとは別にアルバイトしていた映像専攻の野村くんが日本製のShade3Dでモデリングしたロボットをダイキン推薦のモデリングソフト使って調整し完成させたような気がする。

私ではない他のスタッフがフーディニの前身のプリズムも一部使っていたような記憶があるので、さまざまなソフトを使用する実験室のような現場でもあった。

 

おおすみ氏が演劇畑出身だったこともあり、ライブで動く人に演出することができたのと、ちょうどその頃日本でもいくつかモーションキャプチャーのスタジオが出来てきていて、造形大学の造形計画の中心人物だった教授が出来たばかりのデジタルハリウッドでも中心人物だったこともあり、試用期間ということで安く使えたことと、監督のおおすみさんがどちらかと言えば実写畑の人だったので、リアルタイムに演出したいということもあり、それも試みたが、動きデータのノイズをとるのが大変で、うまく使えたとは言えなかった。

デジタルのスタジオは小さなビルの1フロアーを使い、一番奥の窪まったところが、打ち合わせと演出用のスペースで、広くなったところから机が向かい合わせで2列3DCG用、デジタル仕上げ用と制作管理用が向かい合わせで2列、ビデオ収録用に1列並んでいた。3DCGはそこと調布のIKIFスタジオで制作していた。

ビデオ収録はレタスからベーカムのデッキを制御してコマドリしていくもので、時間がかかるものだったので、パーセプション(PARのバージョンアップ版)を導入してもらった。この機材はその後アニメーションスタジオに広く使われ、生産中止になった後でも使っているところがあった。デジタルの世界では珍しく長生きな製品だった。

長さは30分で、3Dカットが250あった。ロボットは背景と同じ処理で、テクスチャーをマッピングし情報量の多い重たいものとして表現した。背景動画や飛行機やトラックなどの重たくて硬いものを3DCGでやるという方針で、それと絡む爆発も3Dで表現した。青山くん達が自主制作していたC G作品で開発していた爆発がLightWeve3Dで作られ、エイリアスではパーティクルを使い煙を作っていた。LightWeve3DではRoccoのと同じような手法を使った煙も作っていた。

透過光は実際の光をアナログのカメラで撮影することによってできるので、デジタル仕上げでは原理的に出来ないと、当時言われていて、デジタル撮影を否定する要因の一つであったりもしたが、一部3Dでやったところもあるが、色彩設定を担当していた海鋒重信がフォトショップを使った処理(マスクをぼかしてスクリーンで乗っける等)を開発していて、色彩設定とエフェクトの両方を担当するようになっていった。以後デジタルアニメーションの光の処理はそれをもとに発展していき、様々なバリエーションが考案されていった。
当初4ヶ月で完成させる予定が、2ヶ月遅れてしまったが、なんとか最後まで完成させた。遅れた原因は誰がどこでチェックするのかといった、ワークフローが細部まで決められなかったことと、当初カット袋などは使わず、アニメーション制作管理ソフトを使いすべてパソコンの中でデータを管理する予定がそのソフトが完成せず、結局従来のカット袋を使って管理することになったことのような気がする。
少人数でデジタル制作のテストしていたサンライズ内のスタッフのところに、外部からおおすみ監督に連れられて、落下傘部隊のようにIKIF関係の学生バイトを含めたスタッフが投入され、急に30分のアニメーションを作らされたというサンライズ側のスタッフの戸惑いもあり、お互いに不幸な現場だったかもしれない。IKIFとしては大幅な赤字となってしまった。
ただ当時の機材でTV番組の物量は制作できることができるということが実証できたことは良かったのではないかと思う。

 

『PANZER DRAGOON』(OVA)1996年

 制作:Production I.G 監督:高木真司 3D監督:木船徳光 3DCG:IKIF+

ブルーシードの時はデジタル化しないといっていたIGだが、『攻殻機動隊』の制作時にはデータの整理にコンピュータを導入し、その後高木氏を中心にデジタル化を始めていた。最初は仕上げスタジオの三角形の出っ張りの部分に机を置きコンピュータを置いてテストしていたが、そのうちマンションの1室を『人狼』版と半分ずつ使うようになっていた。いくつかのソフトを試した結果、鉛筆の線のニュアンスを一番再現できる「アニモ」というソフトが採用された

クロス透過光を回転させることが2Dのソフトでは出来ないのでそれを3Dでやってほしいというのが最初の依頼だった。そのスタジオに私用のスペースが用意され、IG内のIKIFコーナーができて、そこでも仕事をするようになった(まだサンライズの仕事が終わっていなかった上、NHKで放送していたパソコンクレイアニメーションも木船の自宅で制作していたので、朝昼晩と3箇所の現場を移動しながら仕事をしていた)。

ゲームのオープニング(お蔵入りになって世の中に出ることは無かった、後にBloodのメイキングで作監の黄瀬さんが少し言及している)などが最初の仕事で、その後も主にゲームのムービーを作る仕事が多く、その映像はビデオフォーマットなので当たり前のように秒30フレームで制作することになっていた。何かの打ち合わせの時に、アニメーターの井上俊之さんがスタジオの隅に置いてあった段ボール箱からお蔵入りになった自身が担当したカットの動画袋を取り出して見直し私にはなんの問題もない、むしろ素晴らしい動きのカットを「30フレームを使い切っていないなあと」反省していたのが印象に残っている。

その内人狼班がIGの隣部屋を借りてそこに引越し、デジタル班で一部屋使い出した頃に日本初のデジタル仕上げによるOVA作品として「PANZER DRAGOON」の制作が始まった。

当初3Dは16カットの予定だったが、デジタルアニメーションの中に当たり前のように3DCGを入れたいと思っていた私が3DCGを増やすよう提案し、最終的には3DCGを使用したカットは100を超える数になった。

その分机は大きくなりパソコンも2台使って作業するようになっていた。IKIFのスタジオでも青山くんたちアルバイトを含むスタッフが作業をしていた。

IGとしてもこれだけの量のデジタル作品を作るのは初めてで、主なスタッフが一部屋に集まっていた。私の隣が監督で後ろが色彩設定の水田さん(となりのトトロ等の色彩設定)で、何か悩んだときはすぐに相談できる環境だったので、比較的スムーズに作業は進んだ。

デジタル化したときの忘れがちな重要要因は色の問題で、アナログの制限がはずれ1600万色の色を自由に使えるようになったところで、それを適切に調整することが絵としてのアニメーションを作るのに非常に重要なことであった。多少絵が崩れていても色のバランスが取れていれば気にならない。3Dと2Dの違和感も色を調節していけばかなりのところまでなくすことができた。

また「ブルーシード」の時はアナログだった背景美術の木下氏もこの頃絵の具で描くことをやめ、すべてコンピュータ上で背景を描くようになっていて、すべての背景を一人で描いていた。ワコムの大きなタブレットとペインターというソフトを使用して作業をしていた。デジタル化して1ヶ月くらいで従来使っていた絵の具と筆は処分したと言っていた。また木下氏は背景制作に使用していたわけではないが当時日本ではあまり使っている人のいなかったCINEMA 3D(今は4D)を使っていた。学生時代に造形大学で非常勤講師もしている原田てるおさんたちと自主制作アニメーション制作をしていたせいか、話はしやすかった。

背景美術のデジタル化によって全てのカットの背景を一人で制作し、スキャンや色調節の工程を省くことが出来たこともスケジュール通りに制作が進んだ原因の一つと思われる。

 

『GAME 攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』(ゲームオープニングアニメーション)1997年

 アニメーションパート制作:Production I.G 監督:北久保弘之 3D監督:木船徳光 3DCG:IKIF+

『PANZER DRAGOON』で量産のめどが付いたIGが次に選んだのはデジタルアニメーションの表現の深化だった。監督の北久保氏は原作に沿った丁重な仕事で定評があった。アニメーターもIGならではの一流のメンバーが集められ、エフェクト担当の江面氏はフォトショップを触りだしたばかりでアフターエフェクトはまだ使えなかったが、アナログ時代の経験を生かしフォトショップで1コマごとに違う効果を入れていた。

3DCGによる背景も多用され画面全体の情報量も増えていったので、2Dのキャラクターの色分けも境界線の部分をぼかすという、アニモのブレンドという機能を使ってそれに対応した。従来の影の塗り分けと違う、地図の投稿線のような感じで塗り分け線を書く必要があって、それに問題なく適応できるアニメーターとそうでもないアニメーターがいて、必ずしもそれが絵が上手い下手ではないのが興味深かった。

2分半のオープニングアニメーションをOVA一本分の労力をかけて、その時点でできることはすべてやりきって完成させた。井の頭線吉祥寺駅の下の喫茶店でおこなった北久保監督との事前の打ち合わせで、当時の3DCGではやりにくいシーンをカットしてもらったりしていたので、まだ演出家がデジタルのことを考えてもらう必要があったのだろう。

又この時期は各作業者の役割分担が明確になっていなく、透過光などの処理はIKIF+の3DCGと江面さんのエフェクトと海鉾さんの撮影の3箇所でそれぞれ作業をしていた。よく見ると光り方がカットによって違うのはそのせいもある。

IGのIKIFコーナーは箱が牛柄で有名だったゲートウェイのPCが2台になっていた。ゲートウェイのPCは背が高い四角い形をしていたので、上に板を渡して棚にするのにちょうど良かった。占有スペースが少し増えていた。

この映像のメイキング作品をIKIFが制作していて、その中でフチコマというロボットを元のアニメーションでは手書きのアニメーションだったが、3Dのセルエッジ、セルシェーダでレンダリングし動かした映像を半分以上営業の為無理やり入れたが、このゲームのプロモーション素材に使用されたりもしたので、それなりに効果があったようだ。まだアフターエフェクトプロというバージョンがあった頃で、それなりに高い価格だったので、3DCGを中心にしたIKIF+では購入できていなかった。このメイキングではLWを使い、3D空間上の平面に連番のデータをマッピングしてコンポジットして映像素材を制作し、ビデオスタジオに持ち込んで編集した。

青山くんや高石くん北田くんたち男子チームは3Dで自主制作をしていたし、同級生の中で最初はベビシッターとしてバイトしだした奥村優子さんも、初めての3DCG仕事だった。この作品のタイトルのモデリングをやってもらった時、ポリゴンの作り方を教えたのだが、ソフトの使い方を教えたのはこの時だけで以後自分で勝手にやり方を覚えていった。最初の3Dバイトが彼らだったせいで以後新しいスタッフには仕事の指示をするだけでソフトの使い方を教えることは無くなってしまったのは最初の出会いが優秀すぎた弊害だったかもしれない。

デジタル化していった各スタジオの金銭的な支えになったのはこのようなゲーム用アニメーション制作で、IGもこの後テイルズシリーズや鉄拳3などの仕事をしている。この時期デジタル化したスタジオはどこもゲームの仕事をしていた気がする。

 

 

『サクラ大戦2』(ゲームオープニングアニメーション)1998年

 アニメーション制作:Production I.G 監督:高木真司 3D監督:木船徳光 3DCG:IKIF+

いくつかあったゲームの仕事の一つで、フチコマの営業のおかげかロボットを3Dで制作することになった。ゲーム本編のロボットはリアルなレンダリングで表現されていたので、アニメーションパートの3Dはアニモのブレンドのような効果で影との境界部分を少しぼかすという様式になった。大学を卒業してIKIF+の正社員になっていた奥村優子さんが自主的に工夫してロボットの表面にバンプマップをかけてアニメ的な綺麗な境界線ではなく少し凸凹したものにしていた。実用的でなかったバンプマッピングが使えるようになっていて、3Dの表現も色々手探りだったということだったと思う。

カメラの前をロボットの手が横切るカットではオブジェクトを変形させてパース感を誇張したり画面の奥に飛んでいくカットでは動きを溜めたりとか、背景は1コマで動かすがロボットは2コマで動かしたり、2Dのアニメーションの表現に近づけるようさまざまなことを試みた。黄瀬和哉さんの描いた原画に合わせシート通りに動かしたりもしたが、ロボットのレンダリングを3D的な表現にすこし振ったせいで画面の情報量が多かったせいか、最終的にはシートより少しゆっくりな動きになっていった。

 

 

『G.R.M.ガルム戦記』(パイロット作品)1999年

 制作:Production I.G 監督:押井守

デジタルエンジンというバンダイビジュアルが作った開発室で24億円かけて作ることになっていった作品のアニメーションによるパイロット。キャラクターはすべて鉛筆のタッチを生かしたモノトーンの動画で、背景は一枚の雲の写真をトリミングして使い、そこに3DCGによるエフェクトを加えたものだった。監督の作りたい世界を出資者に理解させるための映像だった。

制作が始まった時IKIFはIGが請け負っていたゲームのオープニング等の3DCGを制作していたので別チームだった。ガルムの3DCGは映画攻殻機動隊のC Gを担当していたオムニバスジャパンの田中さんとそこからIGに出向してきていた松本薫さんたちがフーディニを使ってやっていた。スケジュールが厳しくなってきた頃、押井さんに当時息子が映画の「ガメラ」を見たがっている話をしていたら、前売り券あげるから手伝ってよと言われ、参加することになった。

IGがデジタル制作を本格的に進め出した頃で、清積紀文(ねこまたや)さんがアニモの専門家として参加し、2Dの動画をデジタル上でモーフィングさせ3DCGのようなカットを制作していた。清積さんは同じ頃やっていたゲームのオープニングでも地面が崩壊して岩が舞い上がっていくようなシーンや宇宙からの光線で雲海が一瞬でなくなる、3DCGで作ったようなシーンをアニモで制作していた。

 

オムニバスジャパンの田中さんはカメラマップを使用して2Dの画像を3Dにしたり、実写のカメラで撮影したような画面の歪みをつけていたりしていた。松本さんは表示系の映像をデザインから担当していた。IKIFは主に爆発を担当し、同時並行で「サクラ大戦」以外のIG作品もやっていたので、3D用のPCは4台、モニターも2台になっていてそれらを切り替えながら4つ以上のシーンの作業をしていたが、多少混乱していたこともあった。

寒色系の3Dが松本さんで暖色系の3DがIKIF+の担当だった。

ただ、まだこの時もエフェクトを誰が入れるのかがあいまいで、各セクションがばらばらに入れていた。今だったら絶対アフターエフェクト処理だろうという、入射光のカットをIKIFで担当したりもした。

しかしエフェクト担当の江面氏がアフターエフェクトという、今では業界標準ソフトになってしまったものを、この作品を通して習熟し、以降エフェクトはエフェクト担当者がやる体制になっていった。

出来上がった映像は大変面白く、ハリウッドでも評判になり順調に話しは進みだしたが、進むうちに予算が縮小していき、凍結状態になっていた。2012年に再始動し実写映画として2015年に北米で、2016年に日本でも公開された。

この時期にIGでは石川さんのタツノコ時代の同僚で、当時ゲーム業界で仕事をしていた東郷光宏さんを呼び寄せてゲームを作り出していた。東郷さんが松本さんの使用するシリコングラフィックス(SGI)のワークステーションをセッテイングし、社内ネットワークの構築を担当していた記憶がある。会社のシステムの構築は最初は高木さんがやり、そのうちPCに詳しい清積も関わるようになり、ワークステーションクラスになり東郷さんがやるようになり、その後クリエイティブに関係ない独立した部署になってそのための人材を雇うようになっていったが、導入当時はパソコンに詳しいクリエーターが自分でやらなくては進まない状況だった。

デジタルのことよくわからない、若い人に教えてもらわないと何もできない今の私の現状からすると考えられないが、京王多摩川にあったIKIF+のスタジオのネットワーク管理者は私で、NEXTSTEPを中心にMacとWindowsとAMIGAをつなげたシステムを構築していた。AMIGAを使った業務用VHSのビデオ編集システムも構築したのもこの頃だった。

青山くんと奥村さんは卒業後IKIF+の最初の社員として入社したが、青山くんはこの作品の完成時にはもう独立していたが作業を始めた時はまだ在籍していたので彼が得意な表現だった爆発は数カット最後まで彼に任せた。奥村さんも終わる頃にはやめていて、彼らの後輩世代の稲垣くんや馬場くんがバイトをやりだしていて、サクラ大戦は彼らが担当したカットもあった。彼らが卒業してIKIF+のスタッフになっていた頃IGのほうにも何人か常駐するようになっていった。IKIF+としては木船個人で仕事を受けるのでなくチームで仕事をするようになる移行期だったのではないかと思う。

東京造形大学

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