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東京造形大学のアニメーション上映と個人的な製作について記憶している幾つかの出来事(1)
造形大学アニメーション研究会とANIMATION80
[文]木船徳光 Tokumitsu Kifune(東京造形大学アニメーション専攻 教授)
1977 年にビジュアルデザイン専攻の1 年生たちがVD 漫画集団を設立し、その同人誌CS(カオティックスパイラルの略)1 号(編集長は渡部隆)をその年のC S 祭で販売していた。当時三浪して絵画専攻に入学していた渡辺純夫さんがそれを購入し、彼がその集団に参加したこともありVD 漫画集団が東京造形大学漫画研究会へと変わっていった。
私は1浪後当時高尾にあった造形大学の絵画専攻に1978 年に入学した。
同期には2020 年現在アニメ―ション専攻の助手をやっていて文化庁メディア芸術祭の新人賞を受賞した
築地のはらさんの母親でイラストレーターでありアニメのキャラクターデザインも手がける大須賀理恵さん、後にアニメ研に入部する田辺幸夫、アニメ研には入部しなかったが、絵画専攻の中では比較的よく一緒にいたら、アニメも作り出した安野裕二さんがいた。
その春に学生ホールに貼ってあったマン研の部員募集の掲示をみて説明会に行き、その場ですぐに入部した。この時点では私以外の1年生がいた記憶が無いので新入部員は私1 人しかいなかったのかも知れない。その後、西八王子に住んでいた渡部隆や高橋順一らが常連だった、初老のマスターがやっている、絵に描いたような学生街の喫茶店エーデルワイスに連れていかれ、学年は違うが同年代だったので、すぐに先輩後輩という感じでは無くなっていった。その席に後にパートナーになった石田園子はいたと思う。
私も西八王子に住んでいたので、西八王子の駅からちょっと遠い渡部の家が漫研の溜まり場であったが、あっという間に駅すぐの私の家も漫研の溜まり場になっていった。西八王子から大分離れた、当時高尾にあった造形大学からも八王子駅からも距離のあった神戸(ごうど)という地名の所に学生寮のようなものがあり、そこに住んでいた渡辺さんも西八に通う様になり、石田と渡辺さんがアニ同(現アニドウ)の上映会に毎回通うようなアニメーションファンだったので、漫研の中のエーデルワイス派が中央線に乗って都心にアニメーションを観に行くようになっていった。
渡辺さんは関西の神戸出身で神戸(ごうど)に住んでいたのにエーデルワイス派に所属していた。神戸派には後に怪獣造形作家になる酒井ゆうじくんや立体イラストレーターになった松本ひかるくんがいた。漫研に所属はしていなかったが造形大学のグラフィックデザイン教授になった秋田寛さんもいた。
主にアニ同の上映会だったが、それ以外も情報紙ぴあを参考にアニメーションの上映があれば毎週1 回以上行っていたような記憶がある。
その頃ぴあが主催していたアニメーションサマーフェスティバルで藤幡正樹さんや森まさあきさんの作品を観て学生でもこのレベルのものが出来るんだと感心した記憶がある。
そのうち観にいくだけではなく、自分達でも上映会をしたい、となって漫研の活動としてNFB のフィルムを借り大学内で上映会を開いたのがアニメーション研究会の前身だったかも知れない。渡辺さんが中心となってコピーで作品解説の乗ったチラシを作って教室で学内向けに上映会を開いていた。マクラレンとかライアンラーキンの作品を上映していた。マクラレンの水平と垂直を面白いと思う奴は見込みがあるということになっていた。何の見込みかは不明だが。
アニメ研の設立前に私と渡部と渡辺さんの3人がSF 好きでもあったので、渡部の6畳の下宿で密談をして渡辺さんを部長にSF 研究会を作る事にした。1978 年の夏に漫研の募集と同じ様に、学生ホールの掲示板に募集の告知を貼って部員を募集した。映像3年平田実さん(アニメーション、特撮評論家の氷川竜介さんも所属していた怪獣クラブに入っていた特撮ファンだった)と誰かが来てくれたくらいでほとんどの部員は漫画研究会と重なっていた。
最初の活動はどこで販売するという目標もなく、同人誌を作る事となった。渡部がアートディレクターといった方が正確かもしれないが編集長として制作し、100 部印刷した。
福生の米軍ハウスを住居兼作業場としていたポプルスと言う印刷所があって、高校の美術部のメンバーと作った同人誌をそこで印刷していた事もあり、ポプルスに頼むことにした。西八王子から八王子経由で八高線を乗り継ぎ、原稿を届ける役は私だった。転写式のインスタントレタリング以外は手書きで、モノクロ軽オフセット印刷という当時の同人誌としてはスタンダードな形式だった。
石田さんが「わんぱく王子の大蛇退治」の紹介文を書いていたり、平田さんが「皇帝のいない八月」についての文章を書いていたりしていた。私と渡部の合作ショートショートや私と渡部と渡辺さんの合作漫画の予告編とか、大学時代の黒歴史の一つとなっている。印刷して物ができるとそれで満足してしまったのか、特に販売した記憶は無いのがせめてもの救いだ。
SF 研の同人誌が一段落したころ再び私と渡部と渡辺さんの3人が渡部の6畳の下宿で密談をして、石田さんを部長にアニメ研を作ろうという話になった。1978 年の夏休み明けに、再び学生ホールの掲示板に手書きの部員募集告知を貼った。それを見て入ってきたのが映像専攻だった2浪1年の小出正志さん、現役1年石田純章(私の高校の後輩だった)くんたちだった。
映像専攻なのにグラフィックにも関心のあった小出さんから、VD ではなくグラフィックデザインの教授として多摩美グラフィックデザインから移って来たばかりの神田昭夫先生がアニメーションに詳しいという情報があり、顧問を頼む事になった。
神田先生はデザイナーとしても一流だったが、多摩美の学生時代に同期の和田誠さんと日本最初期のアニメーション同人誌「ファンアンドファンシーフリー 」の同人になったり、SF ファンだったり、現代音楽と花火などの見せ物が好きっだたり、大人になってもそういったことをやっていてもいいのだという、人生のモデルにしてしまった所もあった。
出来たばかりのアニメ研の活動は学内上映会が主で、カナダ大使館、日仏会館、ベルギー大使館、日比谷図書館等の無料でフィルムを貸してくれるところから借りてきては上映会を開いていた。
NFB の作品は毎週返すときに次を借りてきて上映していた時期もあった。B4 が刷れる大形のプリントゴッコ(葉書サイズが一般的で、年賀状の印刷に多く使われていた簡易印刷機)を私が購入したので、当日配る印刷物は手描きで版下をつくり制作していた。
今と違って短編アニメーションを観る機会はあまりなかったので、大学内だけでもそれなりに観客がいたのだろう。後にプリントゴッコでは造形大学アニメーション専攻専用絵コンテ用紙をわら半紙に刷ってみんなで使用したりしていた。
設立後最初のCS 祭では、特撮ファンだった平田さんの企画で、カレル・ゼーマンの「悪魔の発明」を映画レンタル会社からお金を出して借りてきて上映した.。それが単純な上映活動のピークだったかもしれない。
しかし、1978 年のC S 祭活動の中心は漫研で、C S2 を版下制作から印刷まで自分たちでやったのが強く記憶に残っている。渡部の同級の生加藤木くんが相原にある印刷所の息子で、渡部はそこの版下制作のバイトをやっていて、彼の家の道路に面した窓に仕事を持ってくる加藤木くんの影が映り、素材を渡されることを、有り難いような怖がっているような感じだった。さらに松本ひかるくんのがそこのスタッフとして印刷のバイトをしていた。
その縁で仕事が終わった後の印刷所を自由に使わせてもらうことが出来たので、製版や印刷、製本の作業をするため漫研のメンバーが夜な夜な相原まで西八から通っていった。その頃の相原は横浜線が一時間に2本しかない時間帯もあるような田舎で、夜になると真っ暗で駅からの行きが恐ろしかった記憶がある。絵画専攻だった私が印刷の大体の流れを知ったのはこの経験のおかげだった。
1979 年の初めは再びSF 研の季節で、2号目の同人誌制作で忙しかった。銀座一丁目にあった「テアトル東京」で「2001 年宇宙の旅」を何度も見に行っていたこともあり、特撮ファンの平田さんの強い推しもあったので、その特集号を制作することになった。写真を網がけすることが予算的にできなかったので、渡部はスクリーントーンを駆使してなんとかしていた。いつものように印刷はポプルスだったが、表紙を渡辺さんが持っていた簡易シルクスクリーンセットで銀色の網点を足したり中表紙を手作業で窓開けしたり、装丁も遊んでいた。神田先生に見せてもらった「ファンアンドファンシーフリー」が念頭にあり、手書きオフセットとしては頑張っていたと思う。このあたりで小出さんがS F 研に本格的に参加し出したと思う。
またその頃映像専攻にかわなかのぶひろ先生が赴任してきた事で造形の学生だった石田純章君の作品がイメージフォーラムの新作ショーケースというプログラムで上映された。それがアニ研メンバーの作品が外部で上映された最初のケースだった。
石田くんの上映と言う刺激もあったので、当時、四谷三丁目の不動産会館ビルにあったイメージフォーラムにも通うようになっていった。中学の頃から兄の影響もありアンダーグラウンドな映画を見てはいたが、この頃から実験映画を集中的に見る様になっていった。実験映画の中でもフレーム単位で映像を操作するものに強く惹かれ、コマ撮りした映像が好きなんだなと認識する様になった。
イメージフォーラムでの上映もあったが、1978 年4月に行われたアニ同主催「アニメタッグマッチ相原信洋VS 古川タク」の二人上映会を観に行って大きな刺激を受けたこともあり、アニメ研設立後2回目1979 年の学園祭では相原信洋さんの特集上映をする事になった。
何かあればすぐに同人誌を制作したがるグループだったので自然に相原さんの特集号を制作する事になった。私と石田が10 月にイメージフォーラムに行って相原さんのフィルムを借り(イメージフォーラムが作家の作品のレンタルをしていた)、それと一緒に不動産会館で相原さんに2人でインタビューをしたのが「IKIF」を結成する元であったのかもしれない。同席していた富山加津江さんが親切だった事と相原さんがサングラスをT シャツで拭くのが印象的だった。普段上映に通っていた場所の裏側に入ることができた事も嬉しかったと記憶している。作家と直接話をしたことが刺激になったのか、少し興奮しながら四谷三丁目から新宿まで夜の新宿御苑前の横を相原さんの話をしながら歩いて帰った。
当時は相原さんの作品スチールが無かったので、上映とは別にフィルムを借り、接写するアダプターを買って16 ミリフィルムから直接スチール写真を撮影した。さらに私がフィルム現像のセットとプリント用の引き延ばし機を買っていたので、私の下宿でスチール写真をプリントした。以後グループ関係のモノクロ写真は私の下宿でプリントすることになった。IKIF の初期作品が「TK フォトスタジオ」名義になっているのはそのせいでもあった。
表紙の相原さんの顔写真はVD の授業で版下を制作するのに使っていたリスフィルムを使って大学の暗室でハイコントラストのモノクロ2階調化にして制作した。VD 専攻の学生たちが写植機を使った授業を取っていたので、文章の写植は彼らが手分けして打っていった。インタビューの書き起こしもした事がなかったので、まあ色々恥ずかしい物になっているのは仕方がない事だった。ただSF 研の同人誌の手書きオフセットからはだいぶ進化し、見た目はだいぶ良くなっていた。
版下も自分たちで制作した。この時、写植の膜面だけを剥がし文字を詰める作業をしたり、版下の指示の仕方を覚えた。絵画専攻だったのに、卒業後インチキデザイナーとして仕事ができたのはこの頃の経験のおかげだった。文字列はそのままのスペーシングではカッコ悪いということを実践を通して学んだのもこの頃だった。
当時の美大生の習性として学園祭に向けて相原さんの作品を上映するだけでなく自分たちの作品を上映したいということになった。相原さんの上映の前に、石田純章、渡辺純夫の個人制作と木船、渡部、石田、平田、池元、高橋の集団制作作品「C U B E」を制作し上映した。ただこの時の集団制作は大失敗で、後に仕事のできない集団ゲシュタルトが結成されてしまったと反省した。この事が原因で大勢ではなく石田さんと2人で制作するユニットを作ったりもした。
上映会の当日、相原さんにゲストとして来てもらって、上映後観客を交えてトークをしてもらった。造形大の入り口に学生運動の時の様な大きな立て看板を、相原さんの写真をもとに作って飾ったのを、相原さんが学生運動世代なのか、やけに喜んでいたことを記憶している。立て看板の書体はいろいろな流派があると言う話をその時に聞いたが、造形大学アニメ研は落語用に寄席で使う勘亭流を使っていた。
多摩美術大学の学生や武蔵野美術大学のアニメーション研究会「謎の幻燈団」のメンバーだった、大久保富彦さん、浅野優子さん、小山佳織さん、牧野伸康くんたちがいた事もあり、相原さんがせっかくさまざまな美大生が集まったので、このまま終りにするのは勿体無い、定期的に集ろうと呼びかけをし、造形大学アニメーション研究会の2代目会長になっていた小出さんが初代世話役として月一で新宿の**という、今は潰れてしまった巨大喫茶店に集まって話をするようになっていった。
これも余談だが、牧野伸康くんは園子の高校時代の漫研の後輩で、同期にのちに漫画家になる桜玉吉さんがいた。子供が生まれた頃家を借りるため不動産屋に行った時、そこでばったり合い、ご近所になったりもした。保育園に子供を送った後近くの喫茶店で休んでいると、誰かと打ち合わせをしている玉吉さんを見けたりもしていた。その後うちの子供たちが2人ともすりきれるほど何度も桜玉吉さんの漫画を読むようになり、それをお手本に漫画を書き出したのも不思議な感じだった。
相原さんが教員をしていた阿佐ヶ谷美術専門学校や日本デザイン専門学校の学生や、もう卒業して背景美術の「アトリエローク」で仕事をしていた関口一博さんも加わり、上映会をやろうというような流れになり「ANIMATION80」が結成されたのは随分経ってからで、忘年会に新宿の居酒屋に行ったり、相原さんもよく付き合ってくれたものだと、いまでは思う。茶店での話し合いの後三平ストアの上の食堂やロールキャベツが有名な店や学生が入りやすい安い店によく行っていた。
相原さんの刺激が大きかったのか1980 年に入るとアニメーションに熱中するようになり、I K I F を結成し、毎月1本の割合で作品を作り出した。
大学の課題も無理やりアニメーションに関連付けたものを作るようになり、石田さんは絵本の授業で驚き盤をモチーフにした「くるくる絵本」を制作したり、私は「C U B E」の素材を使って版画表現の課題を制作したりした。
動きの研究のため8 ミリフィルムで多摩動物園や野毛山動物園に行き撮影した動物の分解写真を自宅の台所暗室で引き伸ばし、印画紙に焼き付たりもしていた。
漫研のエーデルワイス派と石田さんの女友達のグループでやった、3年時のVD 課題はその経験が生かされていて、シャボン玉に閉じ込めたタバコの煙が拡散する連続写真をモチーフにしていた。多分この写真はTK フォトスタジオ制作だと思う。