INTERVIEW

​インタビュー

教員インタビュー 第1弾

森まさあき[第1回・青雲立志編]

Masaaki Mori

日本のクレイ(粘土)アニメーションの代表的クリエイター・森まさあき氏(1955 年、静岡生まれ)は20年に渡って東京造形大学の教授を務め、多くの後進の育成に携わってきた。ここでは2021 年の退任を控え、森氏の功績とその作品世界の魅力をインタビューを通して探ってみよう。三回連載で送る第1回は、アニメーションを自身の仕事と決めた若き日の軌跡を語ってもらった(インタビュアー・霜月たかなか)。

──森さんがアニメーション作家を志された時、そのきっかけとなった作品や作家の方々の影響もあったと思います。作品については第3回でうかがいたいので、まず作家のほうから教えていただけますか?

私の作り方は自己流なんですけど、影響といえばレイ・ハリーハウゼン(注1)からも受けたし、ウィル・ビントン(注2)からも。あと亡くなられましたが、ロバート・エイブル(注3)。しかも私、大学時代に日本版「スターログ」(注4)のライターをやっていたんで、ハリーハウゼンとロバート・エイブルは来日した時に取材で会ってるんですよ。ウィル・ビントンも作品が日本でレーザーディスク化された時に来日して、その時に会ってます。ちょうど英会話学校に半年通った後だったから、「英語ヘタクソだけど、いいですか?」ってインタビューしましたもん(笑)。すごいラッキーだったなと思いますね。

注 1:レイ・ハリーハウゼン(1920 ~ 2013 年)はアメリカの特撮映画監督。独特のコマ撮り手法で「特撮の神様」とも呼ばれる。代表作は「シンドバッド七回目の航海」(1958 年)、「アルゴ探検隊の大冒険」(1963 年)など。

注 2:ウィル・ビントン(1947 ~ 2018 年)はアメリカのクレイアニメーション作家。カリフォルニア・レーズンのCM やテレビスペシャルなど数多くの優れた作品を世に送り出し、一時代を築いた。

注 3:ロバート・エイブル(1937 ~ 2001 年)は多重露光によるイルミナティックなCM 画像の創造で注目され、初期のCG映像の開拓者ともなったアメリカの映像作家。透明感に満ち美しく輝くタイポグラフィーは、現代のモーション・グラフィックスにも多大な影響を与えた。

注 4:「スターログ」(1976 ~ 2009 年刊行)はアメリカの月刊SF映画雑誌。コアな読者に支えられ、1978 ~ 1987 年には日本版もツルモトルームから発行された。現在はアメリカの本誌も休刊している。

──中でも一番影響を受けた作家というと、誰でしょうか?

それを言うと「ああ」って分かって損しちゃうから、言ったことないんですよ(笑)。でも言っちゃうと、ジム・ヘンソン(注5)なんです。彼が作る人形は目玉が大きくて、色も原色使って派手じゃないですか、あの感じがいい。高校のころテレビで「セサミストリート」をよく見てましたし、すごい影響受けましたね。

注 5:ジム・ヘンソン(1936 ~ 1990 年)はアメリカの人形クリエイター、映画監督。テレビ番組「セサミストリート」(1969年~)などのマペット製作で知られるほか、「ダーククリスタル」(1982 年)の共同監督など。

──高校以前だと、子供のころ最初に見たアニメーションは覚えていますか?

あんまり記憶にないんだけど、たぶん「猫のフェリックス」とか「ポパイ」から。ただ私の育った静岡市って電波の谷間で、箱根の山があるせいか意外と電波が届かない。チャンネルもNHK と教育テレビと民放一つしかなくて、わりと見られたのはTBS 系列の番組でしたね。「ディズニーランド」(注6)が好きだったんだけど、プロレス番組と毎週交代で放送するもんだから、二週続けてプロレスだったりするとがっかりして(笑)。

注 6:「ディズニーランド」(1954 ~ 2008 年放映)はウォルト・ディズニー・プロダクション制作のアメリカのバラエティ・テレビ番組。日本放映は1968 ~ 1970 年。初期は「日本プロレス中継」と毎週入れ替わりで放映された。

──森さんのホームページには「小学2年生の時に見た文楽に感激し、文楽の人形師になりたい!」と叫んだと書かれています。人形も好きだったんですね。

アニメだけじゃなく、人形劇の番組も大好きでした。「チロリン村とくるみの木」(注7)から始まって「ひょっこりひょうたん島」(注8)とか、「空中都市008」(注9)とか。「チロリン村」の人形は下から手を入れて操るけど、「ひょうたん島」の人形は下から棒で操って、「空中都市008」は糸操り。そういう仕掛けも好きだったから全部真似して、自分でも人形を作り始めたんです。そしたら母親が人形劇の作り方の本を買ってくれたんですけど、紙粘土の作り方が、もう新聞紙を水に浸すところから書いてあるの。今みたいに100均で粘土が買える時代じゃないのね(笑)。だからちゃんと人形を作るようになったのは、小学校3年くらいの時でしたかね。校門前にある文房具屋から材料を買ってきては、家で一人で作ってたんです。

注 7:「 チロリン村とくるみの木」(1956 ~ 1964 年放映)はNHK制作の初期のテレビ人形劇。野菜や動物を擬人化した人形たちに操演者が直接手を入れ、舞台下から動かしていた。

注 8:「 ひょっこりひょうたん島」は棒操りによるNHK制作の人形劇で、1964 ~ 1969 年に放映された。原作は井上ひさしと山元護久。長く続く人気シリーズとなり、後にリメイク版も制作・放映された。
注 9:「 空中都市 008」は小松左京原作のNHK人形劇(1969 ~ 1970 年放映)。人形デザインを手塚治虫が手掛けている。「ひょっこりひょうたん島」に続いて制作されたが、こちらは糸操りで人形を動かしていた。

──それで人形アニメーションにも、興味を持つようになったんですね?

やはり小学校低学年の時、当時のモノクロテレビで「キングコング」(注10)を見たんですよ。それで、どうして人形が動くのか母に聞いたら、「コマ撮りだよ」って教えてくれた。それから千葉県の船橋に伯父がいて、グラフィックデザイナーをやってたんです。8ミリ映画が趣味で、それで私を撮ってくれたり、タイトルなんかもすごくキレイに作ってくれる。オープニングタイトルは私と姉の名前とイラストを描いた長い紙を襖に貼って、襖を引きながらスッとパンニングするみたいに撮るんですよ。エンドタイトルなんか、私が描いた谷津遊園(注11)のお城の絵を切り抜いて背景にして、信用金庫でもらったソフビの人形をコマ撮りで撮ったり。昔だからダブル8(注12)の8ミリでしたけど、ちゃんとコマ撮りができたんですね。それがアニメーション作りに興味を持った、原体験っていえば原体験。その後、自分でコマ撮りをやるようになったのは、父がシングル8(注13)を買ってからです。ただ初期のそれはまだコマ撮りができなかったんで、シャッターボタンにレリーズスイッチ付けて、手のひらでポンと押すの。するとカタカタッと動いて、3コマくらい撮れるのね(笑)。ところが中学に入ると、私は特撮系も好きなもんだから、そういうものを友達とふざけて撮ったりし出すんですよ。実写やトリック映画のほうに行っちゃった。そして高校の時は受験校だったんで、部活はやらずに家でチマチマそんなもの作ってたら、母に「受験勉強しろ」って叱られたり(笑)。そういう暗い高校時代だったから、一浪して大学に入ってからは映画ばかり見てましたね(笑)。

注10:「 キングコング」(1933 年)は実写と人形アニメーションを合成して製作された、アメリカの怪獣映画。特殊撮影と人形のアニメートをウィリス・オブライエンが担当し、戦前の特撮作品として大ヒットを記録した。
注11:谷津遊園は1925 年に開園した千葉県習志野市の遊園地。プールも備え、東京近縁のレジャーランドとして人気を博したが、運営する京成電鉄の経営悪化などにより1982 年に閉園した。
注12:ダブル8は16 ミリフィルムの最初から終わりまでを二分割して撮影することにより、8ミリフィルム二本分の撮影を可能にした小型映画の規格で、1932 年にコダック社により開発された。またこの規格を取り入れた8ミリカメラや映写機もダブル8と略称される。
注13:シングル8は富士写真フィルム(現・富士フィルムホールディングス)が開発し、1965 年に発表した小型映画の規格で、8ミリフィルムを使った撮影機「フジカシングル8」が人気機種となって普及した。

──そうやって見た映画の中に、アニメーション映画もあったと。

中央大学に入る前に上京して、まず高円寺の予備校に通っていた時、街の本屋さんで買った「ぴあ」(注14)にアニドウ(注15)の自主上映会の告知が載ってたんです。サイクロプスの写真と一緒に「ハリーハウゼン特集」って書いてあって。「アルゴ探検隊の大冒険」をテレビで見てサイクロプスは知ってたけど、作った人がハリーハウゼンだっていうのはそれで初めて知ったんですね。上映会場も同じ高円寺にあったから、走って見に行きましたけど(笑)。さらに「ぴあ」では「ハリーハウゼンみたいな映画を撮ろう!」っていう呼びかけを、その後見つけたんです。呼びかけたのは「亜流悟探検隊」と書いて、「アルゴ探検隊」って読むサークル(笑)。すぐ主催者に手紙を書いて、15 人だか20 人だかの賛同者には高尾や千葉とか遠方の人もいたもんだから、まず真ん中の新宿に集まって。でも自作のフィルムを持ち寄っても、みんなで見る場所がないわけですよ。それでヨドバシカメラの機材売り場で店員に説明を聞くふりをして、「試しにこの8ミリかけてみてよ」って言ってみんなで見たりね(笑)。その後サークルは新宿を境に東と西に分かれることになったんですけど、こちら側の友達の実家が吉祥寺で習字塾をやっていたんで、その一部屋に集まって撮影とかワイワイやってました。でも作ったものはみんなで押入れで見るくらいで、外の人に見せることはなかったですね。自分で自主映画の制作を始めたのは、この時が最初でした。

注14:「ぴあ」は映画や音楽などのエンタメ情報を網羅した情報誌で、1972 年に中央大学・映画研究部の学生らが会社を作って創刊された。類似誌がなかった当時に大ヒットし、会社は自主製作映画の振興にも貢献した。2011 年休刊。
注15:アニドウは「東京アニメーション同好会」の略称で、1967 年に設立されたアニメーション研究同人団体。東京を中心に活動し、アニメーション関係書籍の出版や自主上映会開催の活動などを続けている。

──その後森さんは1977 年のFUJIFILM 主催の8ミリコンテストで、「CM シリーズ」が「学生賞」を受賞しています。

当時いろいろ作っていた中から出品したんですけど、そういう人に見せる作品を作り始めたきっかけも「ぴあ」ですね。「ぴあ」主催の「アニメーション・サマーフェスティバル」の告知に「作品募集」とあったんで、「ぴあ」の会社のある猿楽町なら中央大学の近くだったから、フィルムを持っていったんですよ。そしたら「これはすごい」っていうんで、「連絡乞う」って電報が来た。当時住んでた下宿には電話がなかったもんですから(笑)。それで公衆電話から電話したら「他にも作ってますか」って言うんで、ほかのフィルムと8ミリ映写機を持って見せに行きました。そしたら事務所の中に畳の部屋があって、そこで週末に8ミリ映画を流してはみんなで見るっていうのをやってた時期だったんですよ。そのころ自主制作映画が盛んに作られていましたからね。だから上映しようとしたら、アマチュア時代の森田芳光さん(注16)もそこにいて。さらに「大林宣彦さんも来るよ」って言われて、足が震えましたもん(笑)。それでもドキドキしながら映写機を動かして、持参したいろんな作品を見てもらって。これが私の初めての、個人的な上映会になったんです。しかも終わったら大拍手で、来ていた大林さんがニコニコと握手してくれて、「君は才能がある」。もうそこで、人生が全部狂っちゃうわけですよ(笑)。

注16:森田芳光(1950 ~ 2011 年)は自主制作した「ライブ・イン・茅ヶ崎」(1978 年)で注目され、1981 年に「の・ようなもの」で監督デビューした監督、脚本家。代表作に「家族ゲーム」(1983 年)、「失楽園」(1997 年)など。

──すごいですね。映画ファンだったら誰だっておかしくなる(笑)。

その縁で後に「11 PM」という深夜番組の大阪版が自主制作映画を特集した時、私にも声が掛かったんです。大森一樹さん(注17)や石井聰互さん(注18)なんかの中に私も入れてもらって、作品も紹介してもらえて。その時映したのが「The Godfather of Fantasy」っていうハリーハウゼンのパロディみたいな作品だったんですけど、テレビに出たことで少しステータスが上がったっていうか、周りからの見られ方も違ってきて。それもプロになるきっかけといえばきっかけですよね。

フィルム応募はFUJI 8ミリコンテストの後でもう一回だけしたことがあって、同じ1977 年のPARCO 主催のJPCF(日本パロディ・コマーシャルフィルム)コンテスト。「麻婆豆腐との遭遇」っていう「未知との遭遇」(注19)のパロディみたいなやつを一週間かそこらで作って応募したんですけど、1977 年って、アメリカで「スター・ウォーズ」(第1作)が公開された年じゃないですか。あれがすごい衝撃だったんで、その影響もあって作ったんです。ところが「スター・ウォーズ」が翌年、日本公開されたのを実際に見てみたら、「まあこんなもんじゃん?」みたいな(笑)。それでもやっぱりびっくりしたのは、X ウィングが手前にウィーン!て飛んでくるカットなんかを可能にしたモーション・コントロール(注20)ですね。だからそれとか多重露光とか、人形と背景をどう合成するのかっていうのを自分でもやってみたかった。それでグランプリじゃないけど「PARCO 賞」っていうのをもらえたんで、二度目の受賞だったから「一発屋じゃないじゃん」みたいに思われたのがうれしかったですね。

注17:大森一樹(1952 年~)は自主制作映画「暗くなるまで待てない」(1975 年)で高い評価を得、1978 年の「オレンジロード急行」で商業作品デビューを飾った監督、脚本家。代表作に「ヒポクラテスたち」(1980 年)など。
注18:石井聰互(現・石井岳龍、1957 年~)はインディーズ映画の旗手として知られる監督。自主制作作品の「高校大パニック」(1976 年)を処女作として、「狂い咲きサンダーロード」(1980 年)など野心作を撮り続けている。
注19:「未知との遭遇」(1977 年)は人類と異星人との接触を描いた、スティーブン・スピルバーグ監督のヒット作。同年公開の「スター・ウォーズ」第1作と共に、世界的なSF映画ブームを巻き起こした。
注20:モーション・コントロールは(ここでは)コンピュータ制御のカメラを使って行われる撮影方法を指し、この技術の開発が「スター・ウォーズ」第1作における緻密かつ自在なアングルの移動撮影を可能にした。

──「ぴあ」のサマーフェスティバルのほうはどうなったんですか?

大学を卒業した1979 年の7月に「アニメーション・サマーフェスティバル」で「竹取物語」を公開したんですけど、これは「ぴあ」の制作で、脚本と監督は天草まゆみさん(マンガ家)。アニメートと技術監督・撮影・美術・編集を私がやったんです。8ミリばっかりやっていたから16 ミリをやってみたいと思っていたら、「ぴあ」の人がボレックス(注21)を買って、貸してくれたんですよ。おかげで「ぴあ」の社長室の横に暗幕をピーッと張って、初めての16 ミリ撮影をやりました(笑)。ただ公開前に大学卒業が控えていて、撮影しながら卒業論文も書かなきゃならなかったから、もう力づくで卒業した感じですね(笑)。

注21:ボレックスは映画撮影用16 ミリカメラのブランド名。カメラ設計者のジャック・ボゴポルスキーによって開発されたプロ用機材で、9.5 ミリや8ミリのタイプも作られている。

──卒業する時に、アニメーションを仕事にすることは決めていたんですか?

私がなぜ中央大学の商学部公認会計学科に入ったかっていうと、父親が税理士と公認会計士の両方やっていて、後を継いでほしいと思っていたからなんです。一部は全部落ちて二部(夜間部)だったんですけど(笑)、学費は半額だし、授業は午後から始まるから「これはいいところに入った」と(笑)。ところが半年経ったらやっぱり簿記とかやんなきゃダメだって気づいて、午前中は簿記学校、午後は大学に通って、後は部屋で人形作るみたいな生活をしながら、なんとか税理士の簿記の試験にも受かることができました。けれどその時点で私はもう、そっちの方向に行く気がなくなっていたんですね。それで父親に「申し訳ないけど、継がなくっていいか」って、恐る恐る電話しました。ただアニメーションの方向に進むと決めても就職先は決めてないから、卒業してから一年間は就職浪人。それで食べるためにアルバイトもしてたんです。その一つがさっきの「スターログ」のライターで、まだ大学にいる時から片手間で特撮の解説記事なんかを書いてました。ほかにもテレビCM のコマ撮りをやらせてもらったり、テレビの「西遊記」(1978 ~ 1980年放映)を作ってた日本特撮っていう所で撮影もやったり。就活では8ミリフィルムや映写機を持っていろんな所に営業に行って、そのうち行き着いたのがアニメーションスタッフルーム(注22)だったんです。仕事の体験を重ねながら「自分は何をやるべきか」って、すごく悩んでいたのがこの時期だったんですけど、結果からいえばとてもラッキーな巡り合わせだったと思うんですね。

注22:アニメーションスタッフルームは1972 年設立のアニメーション制作会社。最先端技術を使った映像制作に秀で、CM作品を中心に人形アニメーション作りや特殊撮影、CG 映像の製作を、自社開発のモーション・コントロールを活用して数多く手掛けた。

──そうして就職されたのが1980 年。第2回では森さんの、その後についてうかがいたいと思います。ありがとうございました。

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