INTERVIEW

​インタビュー

教員インタビュー 

森まさあき[第2回・風雲独歩編]

Masaaki Mori

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森まさあき氏の教授在任最終年度を迎えて、その有終の美を飾る3回連続インタビューの第2回目。前回で映像制作会社「アニメーションスタッフルーム」に入社を果たした若き森氏は、いよいよクレイアニメーターとして身を立てることになる。その波乱万丈の活躍ぶりを御照覧あれ!(インタビュアー・霜月たかなか 2020年9月)

──森さんのアニメーションスタッフルーム入社の1980年は、映画やCMを先頭にCG時代の幕開けでしたね。

 

アニメーションスタッフルーム(以下、ASRと略す)はそのころ同じ青山にあった白組(注1)さんとも良きライバル関係にあって、ただモーションコントロールにおいてはASRのほうが当時は進んでいましたね。それは藤井昇(注2)さんという優れたクリエイターが居たからで、線画台(アニメーション撮影台)をコンピューター・コントロールしてのバルブ撮影(注3)をすでにやっていたんですよ。映画「スーパーマン」(1978年)のタイトルの文字が光の帯を引いて飛んでくるのが当時「ストリーク」と呼ばれた技術で、藤井昇さんは初期のコンピューター・グラフィックス(以下、CGと略す)だけでなく機材開発のプログラミングもできたので、ASRでは線画台にステッピングモーターを取り付け、パソコンからのパルスコントロールで制御してその「ストリーク」や、「スリットスキャン」といった映像を生み出していました。ASRでは藤井昇さんがディレクター役で、その弟の藤井晃さんはプロデューサー。入社した僕は晃さんの下で、制作として働くことになったんです。昇さんは当時よく「コンピューターの世界ってすごく面白いんだよ。コンピューターの可能性が今いろいろ探られている中、そのどこかから突然ドンと、一気に発展することがあるんだ」って話してくれて、今考えてみるとコンピューター技術は確かにそういう独特な発展の仕方をしてるんですね。ところが僕はその時「ふーん」と思ったくらいで、CGよりもモーションコントロールのほうが好きだったんです。ただ当時のモーションコントロールってなかなかうまくいってなくて、本当は「スター・ウォーズ」のようなモーションコントロール・カメラで、ガーッと自由自在なクレーン撮影をやりたかったわけですよ。だけどそのカメラはとんでもない値段だったので、あの東宝でさえアメリカから買えなくて、「さよならジュピター」(1984年)でもそれもどきの装置を使ってましたよね。だから日本ではASRが開発したのが最先端で、東宝はその後、沢口靖子主演の「竹取物語」(1987年)の時に「貸してくれ!」って言ってきたの。でも重くて動かせるような装置じゃないから、「持ってけないんだよ、撮影しに来い!」と(笑)。ASRでさえそのために、専用のスタジオを作ったくらいですから。

注1白組は1974年設立の映画及び視覚効果制作会社。CG、特撮などの高度な技術を駆使して「リターナー」(2002年)、「ALWAYS 三丁目の夕日」(2005年)など、多くの話題作の制作に携わっている。

注2藤井昇(ふじい のぼる、1949年~)はCMプロダクション・APCから、アニメーションスタッフルームに移籍した映像ディレクター。初期のモーションコントロールをそのシステムから作り上げ、CMにおける数々のモーショングラフィックを生み出したパイオニアとして名高い。

注3バルブ撮影とは長時間露出による撮影方法の一つで、シャッターボタンを押し続けている間だけシャッターが開き続け、動く光源の光跡を流れるように写すことができる。

──そこで指導を受けながら、制作の仕事をこなしていったわけですね。

制作の仕事は、プロデューサーの藤井晃さんの元で学びました。顔が似ていたので「藤井の弟の森です!」って言ってね(笑)。創作に関しては兄の昇さんからです。昇さんは凄い人で、まだフォートラン(注4)というマシン言語でパソコンを動かしていた時期に、独学で勉強しながらプログラミングをしていたのが素晴らしかったですね。僕なんかはそういうのが苦手だったから、撮影スタッフに「こういう感じに動かして」って言ってやってもらって。ASRは当時は13人くらいでしたけど、みんなとても仲が良くて、楽しい雰囲気の会社でした。ただ仕事ではプログラミングを走らせるまでの待ち時間が長かったから、無意味な徹夜も多くて、おかげでコンピューターは大嫌いになったんだけど(笑)、制作さんだったのでCM作りの仕事の流れが全部わかった。そのことはとても感謝してます。おかげで入社して3年後には、もう電通とか博報堂といった代理店やスポンサー、また制作プロダクションに直接行って打ち合わせをして、会社に帰ったらすぐ絵コンテ描いて、OKもらったら作画して素材を作り、撮影に出して、上がったフィルムを現像所に取りに行き、オプチカル出し(注5)して、ネガ編集もして、最後にプリントを納品。そのうえ請求書届けまでやったんですもん。だから周りから「歌って踊れる制作さん!」って言われましたよ(笑)。

注4フォートラン(Fortran)は1954年に作られたプログラミング言語で、科学技術の計算に優れた世界初のコンピュータ汎用言語。最新バージョンはFortran2008。

注5オプチカル・プリンター(現像したフィルムの映像を、別のフィルムに焼き付ける複写装置)を使って、フィルムに特殊合成効果を加える作業において、その作業用にカットを切り出し、指示書を作ることを「オプチカル出し」という。

そうやってだんだんと作画もディレクションもできることがわかってもらえたので、4年目には制作からディレクターになって、いわゆるパシリは卒業しました。そうなったらもう「このCMを自分色に染めてやるぞ!」って、モーションコントロールでいろんなコマ撮りやミニチュアの撮影をしたり、とにかく様々なことをいっぱいやったわけです。まだCGの初期の時代でしたから、スキャニメイト(注6)みたいに、モニター画面を一コマずつ撮影したり。あとCGの基本のワイヤーフレームでいろいろデザインするのも面白かったんですけど、出来上がったものは「コンピューターで作ったんでしょ?」って言われてしまう。それでだんだんつまらなく思い始めた時に、李泰栄(注7)という同い年のCMディレクターと出合ったんです。彼は当時、CMランドっていう制作プロダクションで大人気のディレクターで、人形アニメーターの真賀里文子(注8)さんと組んでウィスキーのCM(注9)をヒットさせたり、とてもお洒落なCMをいっぱい作ってた。それで彼のスタッフに加わったんですけど、人形のコマ撮り部分は真賀里さんがやるわけですから、僕はほかの細かいエフェクトアニメやタイトルを一所懸命作ったりしているうちに、「森ちゃん、もっとなんかいいものない?」みたいに言われて、それで親しくなっていったんですよ。僕が元々人形アニメをやっていたのを彼は知っていたんで、「いつかチャンスをあげるよ」って言ってくれて、それでもらった仕事がクレイアニメだったんですね。

注6スキャニメイトとはアナログ・コンピュータによってビデオ映像信号を生成加工するシステム機器、及び生成加工されたアニメーション映像のこと。1960~1980年代に使用された。

注7李泰栄(り たいえい、1955年~)はユニークなアニメーションを使ったCMで、多くのヒット作を生み出した人気CMディレクター。最初CMランドに入社し、後に独立して活躍している。

注8真賀里文子(まがり ふみこ)は岡山県出身の人形アニメーター。持永只仁に師事し、「ウルトラQ」「コメットさん」など往年のテレビ番組から、近年の「コンタック」「ドコモダケ」などのCMまで、幅広いキャリアを持つベテラン作家。

注9ウィスキーのCMとは李泰栄が演出を担当した、サントリーオールド&ペリエのCM「ウサギのママとアルマジロのバーテンダーのいるバー」(1983年)のこと。キャラクターデザインはマンガ家の大友克洋。

──なるほど、そこからクレイアニメーターに。しかも仕事のうえで、真賀里文子さんと出会えたっていうのもすごいことですね。

日本では人形アニメーションをやる人も、しかもそれをフリーランスでやる人も非常に少ないですから、真賀里さんの存在は大きいですよ。姉御肌で口の立つ人だから(笑)、言われるとこっちも二倍、三倍にして返したりして(笑)。なにより真賀里さんも僕も酒が大好きで、よく一緒に飲んだりして、仕事でバッテイングすることはあっても仲良くさせていただいてますね。

──するとクレイアニメを手掛けるようになったことが、会社からの独立につながっていくわけですか?

ちょうどMTV(注10)が盛り上がっていた時期でしたから、ヘンリー・セリック(注11)みたいにアメリカでもいわゆる美大出の作家などがいろんなアニメ表現でミュージック・ビデオを作って、その中にクレイアニメもあったんですよ。そういう自由なアニメーションがテレビからあふれてくるのを僕も見てたし、仕事のオーダーでも「ああいうのを作ってくれ」っていう声が出るようになってきた。ただクレイアニメーションって、分業じゃできないんです。日本では人形アニメーションって、人形を作る人、動かす人、演出する人っていうふうに仕事の分担が分かれてますよね。でもクレイアニメはフォルムの造形がどんどん変わるから、まずは造形ができて、しかもアニメートできる人じゃないとダメなわけですよ。実際、真賀里さんも、フォームラテックスの人形でクレイアニメのようなテイストもトライしてたんだけど、李さんは「もっとクレイっぽく、ドロドロしたものを…」っていうんで、僕に「やってくんねえか」って。でもその時はまだ、自分の造形でいけるかどうか信頼を得られなかった。それでも「こんちくしょう!」と思いながら(笑)やってみたら、「作れるじゃん?」ってなって、それで任せてもらえるようになったんです。だからCM業界というか映像業界って、一回でもチャンスをもらってやるとそれがキャリアになるんですよね。それでその時が最初の仕事で、以来、粘土の仕事がどんどん来るようになったんですけど、ASRで粘土の仕事をしてるのは僕だけだったから、もう準備のために土日も返上して会社に出て、粘土捏ねてるような生活になって。さすがに「キツイ!」って言ってたら、社長もかわいそうだと思ったらしくて、「独立してもいいよ」と。それでASRを離れることになったんですよ。だからいい関係で辞められましたし、その後でも僕が仕事をASRに持っていって、それをモーションコントロールで撮るってこともできたんです。

注10MTV(Music Television)はアメリカの若者向けケーブル・テレビチャンネルの一つ。1981年にポピュラー音楽専門局として創設され、音楽とビデオクリップの24時間放送が話題となった。

注11ヘンリー・セリックはアメリカのアニメーション作家。代表作「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」(1993年)の監督のほか、多彩な作品のプロデュース、作画、演出などで知られている。

──それでフリーランスになったのが1989年。会社員だった時と、どんな違いを感じましたか?

フリーになった時に一番困ったのは、ギャランティをどう決めるかということですね。CMの仕事ってミスをすると、フリーの場合なんか二度と声が掛からないわけですよ。ASRにいた時は会社というバックアップがあったし、安いなりにギャラに関しての心配はなかった。それに仕事って「それなりの出来かな」と思っても、絶対に「失敗した」って言っちゃいけないとかあるじゃないですか。だけどフリーになると、撮影やってて「ちょっと違うな」と思ってもそのままやんなきゃいけなくなって、それが途中でバレるんですよ。だから会社にいた時の方法論じゃダメだってことに気付いたり、そういう時は「大変申し訳ないけど」って正直に言ってやりくりして、次の日に撮影を全部し直したりとか、いろんなことがありました。それでも仕事で挫折につながるとしたらむしろ人間関係で、もう二度とやりたくないっていうコリゴリな仕事相手は僕にも何人かいますけどね(笑)。だから逆に、そういう仕事上のトラブルなら、なんとか乗り越えられるもんだなとも思ったんです。それにフリーだからというか、いろいろな所でいろいろな人と仕事が出来たのも良かったですね。ただ一方で自分の組…映画で言えば大林組(注12)みたいな、自分の組(ファミリー)を作るべきだったかな?と思ったこともあるんです。例えば現場で「誰か、カメラマンの指定ありますか?」って聞かれた時に、自分はまだいろんな人と仕事がしたかったんで、「お任せします」って委ねてたんですね。でもフリーである程度やっていくと、同じ人とやるとその人も育つからっていう、そういうのもやるべきだったなって後で反省したりもして。ただし親亀がコケると子亀もコケるから、そこは難しいんですけどね(笑)。

──フリーの後、1990年には「(有)モリクラフトアニメーション」を設立して、社長の立場で経営を引き受けることにもなるわけですが…。

その前にフリーランスになった時、ASRでの仕事を引き継いだり、会社と喧嘩別れしたわけではなかったので、仕事もその延長上で出来たんですよ。それで辞めた年か次の年くらいに、「とんねるずのみなさんのおかげです」(注13)という番組のオープニングアニメの話が偶然来て、まず最初に一本作ったら「今度は歌ものでやる」って言うんで、「よっしゃ!」とばかりに「ガラガラヘビがやってくる」を作ったんです。それが評判になったら、次の年に作った「がじゃいも」もまた当たったりして。時代もちょうどバブル経済のころでしたから、そういう意味では順風満帆というか、ポポポンと世の中に出ていくことができましたね。それに経営者になったといっても僕とアシスタント一人の会社だったし、経理だって中央大学商学部会計学科卒ですから(笑)。自分で簿記やって、会計して、それを(税理士やってる)実家に送ると全部計算してくれるっていう(笑)。普通なら苦労するところなんでしょうけど、そこらへんはうまく辻褄合ってるんですよ。元々制作としてASRに入ったこともあって制作全体の流れはわかってますから、「粘土アニメ初めてなんですけど」って依頼の電話があっても「どのくらい日にちがかかって、準備がこのぐらいで、撮影がどこどこで」って対応できるし。予算も「どのくらいあるの?」って、逆にこちらで仕切れたっていう(笑)。そういう感じでしたからこれまで、あんまり不安はなかったですね。

注12大林組は映画監督・大林宣彦(1938~2020年)の作品制作において、常連スタッフ及びキャストが集まった際のユニットの俗称。俳優の尾美としのりなどがいる。

注13「とんねるずのみなさんのおかげです」は1988~1997年まで、フジテレビ系列で放送された伝説的人気バラエティ番組。出演はとんねるず(石橋貴明・木梨憲武)とゲスト陣。

──うまく軌道に乗せられたわけですね。では経営者とは別にクリエイターとして、クレイアニメーションを仕事にしたことをどう感じているのでしょう?

これは仕事をしながらわかったことなんですけど、クレイアニメってどんどん形を崩して、それを直していかなきゃならないじゃないですか。そういう、どんどん造形しながらアニメーションを作るってことをやってるうちに、「あ、これ、俺の仕事だ!」みたいな確信は持てましたね(笑)。そのかわり粘土に関しては教科書があるわけじゃないし、昔はYouTubeもなかったですから、みずから開拓していったってことでは全部自己流。それが認められてヒット作もできたんですから、とても楽しかったですよ。一人で作るから自分の味が出せるわけだし、許容量もわかってますから、注文が増えすぎて拾いきれない時には断ることもできますしね。だから無理に手広くやって、若いやつに「やっとけー」って言って経営者に回るみたいな考えはまったくなかった。ただ困ったことに、僕は仕事として何か頼まれた時は燃えるんだけど、「自由に作っていいぞ!」ってまったくの白紙で渡されるとなかなか手が進まないの(笑)。会社持ってた時も何度か自分で企画立ててやろうと思ったんですけど、そこらへんはあんまりうまくいかないんですよね(笑)。

──どうもありがとうございました。次回もよろしくお願いします。