INTERVIEW
インタビュー
教員インタビュー
森まさあき[第3回・教導怒涛編]
Masaaki Mori

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いよいよ三回連続インタビューの最終回。日本を代表するクレイアニメーターとなった森まさあき氏は、大学教育という未踏の地に足を踏み入れることに。以来15年間の、東京造形大学での教職生活を総括しての貴重な一言一句を、ぜひとも熟読してほしい。 (インタビュアー・霜月たかなか 2020年9月)
──森さんはその後東京造形大学で、後進の指導にも取り組まれます。なぜ教鞭を取るようになったのか、そのきっかけからまずうかがいたいのですが…。
それは1990年代に「徳島アニメ学校」っていうのがあったんですよ。徳島市が半官半民みたいな形で作った市民カルチャースクールみたいなもんですね。そこで石田卓也さんや片山雅博さん(注1)が教えることになって、ところが別の先生で急に辞めた人がいたもんだから、私のところに「講師をやってくれないか」と。まだ自分の会社をやっていた時ですね。四国には行ったことなかったので、面白がって徳島まで通うことになったんですが、一般の人に教えるってことがなかなか面白く感じられて。教えることに興味を持つようになったのは、それがきっかけですね。
注1:片山雅博(1955~2011年)はアニメーション作家、日本アニメーション協会前事務局長、多摩美術大学グラフィックデザイン学科教授。多くの後進を育て、東京造形大学でも教鞭を取った。
──その体験が、造形大学で教えることにつながったと?
毎年入学式および新学期ガイダンスが始まる4月には造形大キャンパスは桜が満開になってウキウキする。小出・木船・和田・森の4人の専任教員と助手2名体制。助手は約3年周期で交代。2021年度からは私に代わって若見ありさ先生が専任に仲間入りする。
いや、すぐにではないんです。何か正式な学校で教えるのは責任重大というか、すごく私は拒んでたんで。徳島のアニメ学校のようにワークショップ形式で「楽しかったね~」みたいに軽く終わるならいいんだけど、大学で教えるとなると育てる責任もあるんだと重く感じて、なんだか相手の心の中に踏み込むような気がしたというかね。そこまで指導するのはちょっと…みたいな、ためらいというか遠慮が当時はあったんですよ。今はもう、ずけずけ踏み込んでるんだけど(笑)。造形大は最初、小出先生と木船先生がわざわざ自宅まで来てくれて、「(非常勤講師を)どうでしょう」みたいに誘ってくれたんですけど、その時は「ごめんなさい」と断ったんです。それでも小出先生たちは何回も来てくれて、今度は「非常勤じゃなく特任教授で」と。それで私のほうもだんだん折れて「それじゃあ」と、頷くことになったんですよ。そうして2001年から特別講義みたいな形で始めることになったんですけど、すでに東京工芸大学で古川タクさん(注2)が、多摩美で片山雅博さんが先生をやってらして、まだ造形大が「アニメーション専攻領域」という形になっていなかった時代です。でも実際にやってみて、今言ったようなとまどいがなかったのは、やっぱり徳島のアニメ学校を五年間やったことが大きかったのかもしれない。そこで一般の方々相手に教えて、時には友達づきあいみたいにしてっていう中で、生徒との接し方がだんだんわかるようになったっていうのかな。もちろん市民講座と大学で教えるのとはちょっと違うんだけど、そういう違いもわかったうえでの学生との付き合い方っていうのがね。
注2:古川タク(1941年~)はアニメーション作家、イラストレーター、日本アニメーション協会会長。日本アニメーション界の重鎮であると共にアニメーション教育において、後進の育成にも尽力している。
──大学で教えるというのは、造形大が初めてだったわけですね。
人形アニメーションの歴史と技術を紹介する「アニメーション論B」トルンカから始まりチェコ、ハンガリー、アメリカ、そしてトリック映画からハリーハウゼン、さらに<なぜその恐竜たちは絶滅したか?>などCG移行史に繋がる脱線も楽しく、最後には自身のフィルム上映もある名物授業。